大藪雅孝について

荘厳の芸術家―大藪雅孝について



大藪雅孝
大藪雅孝
本江邦夫氏 (美術史家/多摩美術大学美術館長)

    「絵の具(の如何)にかかわらず、この血を受け継ぎ、この地に 育てば、おのづと日本画なんだ」(大藪雅孝)



 大藪雅孝さんとは8年ほど前に、彼の青梅の多摩川沿いの広壮なアトリエで対談をさせていただいたことがある。それまでいろいろな集まりで言葉をかわすことはあったが、いわゆる「謦咳に接する」思いがしたのは、このときが最初で、そして最後だった。予想外の早すぎる死が私からその機会を奪った。ちなみに、このとき同席された淳子夫人から洞爺湖の近くで薔薇園を育てているというお話を伺い、小・中学校のほとんどすべてを札幌と小樽で暮らした私はまだ見ぬ伊達市を遥かに想ったのである。

 その対談は某美術誌上で、私が聞き手となって連載されていたものの一つだが、その折の大藪雅孝の語りはとりわけ印象深く、深い感銘を残した。それは対談後の私の感想、というか偶感のちょっと不思議な調子によく現れている。長いものではないので、全文引用しておこう。

「大藪雅孝の奥多摩の川縁の、隠者の庵にしては立派すぎる(皮肉ではありません)アトリエ兼住居で対談を終えて、ちょっとその辺で遅めの午餐でもという話になった。冷たい雨の午後、多摩川に沿って一本道を十分ほど歩いた。<こんな近くに川が…増水したらどうするのだろう?> しかし、どういうわけか、ざわざわと流れていたはずの音の記憶の一かけらもないのである(夢ではありません)。

 神秘的だったのは、けっこうなお食事をいただいたあと、その迷いようのない一本道を、降りしきる雨と喧嘩でもするようにアトリエめざして一目散に戻ったときのことだ。いくら歩いても行き着かない。<これはおかしいぞ、桃源郷じゃあるまいし。> 何のことはない、おそらく雨を気にしすぎて通り過ぎただけのことなのだが、それにしても不思議なことだ―と私は感じ入り、ハイデッガーの言う Lichtung つまり見えるようで見えない、そこだけぽっと明るい「林間の空地」、あの卓抜な芸術の比喩のことを遥かに思った。そこに大藪雅孝の芸術を直観したのである。」

 画家のアトリエをたとえ一瞬にせよ、見失ったということは、少し強引な言い方になるかもしれないが、大藪雅孝の芸術がそれだけ自然だったということかもしれない。言い換えると、自然の中に大藪が、大藪の中に自然が住まっている―そんな感じだ。芸術を、自然を、見失った時点で、私たちはすでにその中に包み込まれている―こんな言い方も可能だろう。また詩人の宗左近に、大藪芸術にまつわる「色ある鏡の奥の色のない透明」(「幸福」)の詩句があるが、これなども同じ不思議を感じたのであろう。
こうした、はっきり言って謎めいたことになぜこだわるかというと、ここに―つまり自然との同一性、等質性に大藪芸術の最大の秘密があるように、少なくとも私には思われるからだ。
 具体的に語りたい。大藪雅孝の、花鳥、静物、風景、人物また陶芸、書、盆栽、水石―美術の全分野にまたがる、それこそ超人的な仕事に、私はいかなる巨匠にあっても宿命的な作品の出来不出来といったものをまったく感じないのである。理念的に言うと、それぞれが個体としては当然の差異を見せながら、美的な強度は一定している。それらはただのモチーフから出来しているわけではないのだ。かつて、この稀代の芸術家は言った。「私は、身近な人物や風景そして植物や動物などを、大きいものは大きな画面に、小さいものは小さな画面に描いています」と。これはモチーフとの関係を等質かつ同一にするということではないのか。画家の根底によほどの強固な思想がないと、こういうことは言えないと思う。思想といっても、主-客を厳格に分かち、しかもときに対立させる西欧のそれではない。大山雅孝の語りに耳を澄まそう。

  「日本の場合には、自我も包み込む自然の中に生きているのだと思います。だから自然破壊が急速に進むと、日本人は、その拠り所を失う危険性があります。自然の力を体系化したものは、仏教の根底にある華厳の世界だと思います。だから日本人は自然と深く関わり合いながら、宗教的なある絶対的な世界に向かうものと思います。そうすると、その自然を荘厳する装飾性に向かうのだと思います。」

 華厳の世界の根底にあるのは、大乗仏教の仏典の重要な一つ、華厳経に基づき、自己および人類の現状を包み込む世界を、限りなく広大で美しい種々の荘厳(飾り)の総体、すなわち華厳の(「輝きわたるもの」の意)のとみなす立場である。このとき、微塵の中に全世界を映し、一瞬の中に永遠を含むという一即一切、一切即一の世界が展開される。これこそが大藪雅孝の美的な世界ではないのか。事物が一個の対象として自立することはもはやありえず、全自然を荘厳する大いなる装飾性に有機的な一部として組み込まれるのだ。 
大藪によれば、「日本の美の起源は抽象的な美の理念ではなく、自然に包まれた実際の行為と結びついて生まれ」たものであり、「したがって美の本質的な機能は、生活に奉仕することである。」 ここで言う「抽象」とは「思弁」と同義、要するに現実遊離ということであろう。大藪芸術の最大の理解者の一人、今は亡き米倉守はかつて、大藪の描く「身近の雑物」には「何かの表現の担いの気持ちの焦点」があると、ちょっと不思議なことを言ったが、これは私なりに言い換えれば、表現の主体がときに偉そうで傲慢な「芸術家」ではなく、何気なくそこにある、取るに足りないと思われている、ただの「事物」にあるということだ。美としての仏、仏としての美は世界に、個別に遍在する。大藪雅孝の類まれな目はそれを見切ったのである。どのような事物でも、へりくだってそれと正しく対峙できれば、すべて美しいのだ。
ところで綜合的な芸術家、大藪雅孝にあってもっとも非凡なのは、こうした東洋的な思想にいきなり到達したことではないことである。これには少し説明が必要だ。

大藪雅孝は1937年に京城(現ソウル)に生まれ、5歳から高校時代までを香川県で過ごした。1960年に東京藝術大学美術学部工芸科を卒業、しばらく精工舎などに勤務したのち、1964年に母校に戻り、基礎デザイン研究室助手となる。強調すべきは、この間の大藪は徹底して状況的な「現代美術」の作家だったということだ。残された作品写真を見てもそれは用意に確認できる。しかし、それらは今日の観点からすると、どうしようもなく典型的な「現代美術」であり、大藪芸術の魅力の一端も見せていない、というのが私の考えだ。画家自身の後の金言、「観念や慣習による集団的無意識化に感染されぬこと」が思い出される。実際、勤務先で「芸術家」として特別な配慮を受け、1962年のシェル美術賞佳作などそれなりの評価を得ながらも、この本質的に内省的な画家の心からある種の空しさが消えることは無かった。そんなとき、1964年東京オリンピックを記念した、国宝級の古美術、とりわけ仏画の展観(東京国立博物館)、中でも元興寺の≪智光曼荼羅≫に強い感銘を受け、「全身に身の毛がよだち動けなくなり、自然に涙がでてきました。」具体的には、「厚塗りの絵肌の剥落した色層とその中に残る切金の輝きが相俟って、ものすごく強い存在感と象徴的空間にしびれました。」 その後の大藪絵画のマチエールの重層性の源泉が、すでにここにあることに注目したい。
念のため言っておくが、これは大藪が「現代美術」を否定したわけではない、むしろ真に内面的に消化したということだ。後に彼は語っている。「現代美術とは適確な現状認識に基づき現今に対し近未来に向け、よりよき社会になる為の問題意識をもった作品を指し、形式やファッション性で決めるものではない」と。 「よりよき社会」には虚を衝かれた。なるほどそうだと思った。硬直と背中合わせの前衛―つねに新奇さを偽装するそればかりが現代的ではないのだ。私自身、大藪雅孝からとても大切なことを教わったように思う。 「現代美術」の表層性を直観した大藪雅孝は33歳のときの個展(サトウ画廊 1970年)を最後に、「前衛的仕事と決別し、総て一から出直そうと決心」する。

 「学生時代から趣味として石(水石)の採取や松(黒松の盆栽)の育成をして」、もともと土いじりが大好きでしたので、まず取り組んだのは、自然と身体との問題、つまり労働で汗を流す生活に心掛け、今までの観念的意識構成を排除し、日常の原体験を通して身で感得する生活姿勢を持つことに専念しました。」

同時に篆刻、書、作陶に手を染め、「自然観察の智、デッサンの本質、日本画、油画の材料とその組成、両洋の装飾様式の研究など、幅広く造形表現者としての基本的体得として、自分なりに徹底した」のである。こうしたある意味での美術全般にわたる「修行」の重層的かつ多面的な性格が1970年、デザイン科講師にはじまる画家の大学教員生活に大いに役立ったことは言うまでも無い。教え子たちによるグループ展『阿吽』の自由闊達さにそれは遺憾なく発揮されている。
芸大教授としての大藪雅孝は、平山郁夫のような政治性こそ有しなかったが、やはり超人的な存在だったと想う。日本画や油画の高級な(?)「美術」に比べ、どちらかというと商業的で実学とみなされがちな「デザイン」を、その本義であるラテン語のdesignare(計画する、設計する)にまで遡って捉えなおしたのは彼の大きな功績といえるだろう。実際―これはヴァザーリが明言していることだが―ルネサンス期の美術において最高位を占めたのは全体構想としてのdisegnoであり、理念的には絵画も彫刻もそこに従属すべきものなのである。藝大のデザイン科から多くの画家が輩出したのは理由の無いことではない。
とはいえ、巨匠、大藪雅孝亡き今、その業績、功績のどこにまず注目すべきかというと、私としてはやはり、画家としてのそれを挙げざるを得ない。これは大別すると技法と理念の二つに分かれる。

技法というのは、日本画の水性と洋画の油を繋ぐものとして、ポリマー系の絵具(たとえばアクリリック)の画期性に注目したことだ。図版では十分に理解できない大藪独得のどっしりと重層的な、まさに物体的なマチエールはこうして実現したのである。油絵のもたらした透明なゴムの塊のような空間性を嘆賞する私としてはポリマー系に手放しで喜ぶわけにはいかないのだが、乾きの早さに惹かれてアクリル絵具に走る凡百の、とりわけ若い画家たちとは一線を画した大藪の創造的独創性を高く評価するのに吝かではない。彼のような画家が初めて「ミクストメディア」という、本来先天的で革命的な呼称の使用権を持つべきなのだ。 理念的というのは、「対象と自分とを両方包み込む」、いわば究極原理的な「気」という宇宙的な概念を持ち込み、絵画を形態的な束縛(美醜といった)から解放したことである。画家が言うには、絵を描くのは時間がかかるが、対象と周囲に「充満していた「気」が抜けないように、最初の段階で一気にスッと近づけていくとピタッと決まる」のだ。

 「その時何かスッと入るのです。自然の神気とか霊気を描きだすことにより絵は生きたものとなるのです。絵は巧拙問題でも、美醜の問題でもなく、技術や才能や個性などと言った次元ではなく、もっと精神的な多角深いところの宇宙的生命感、即ち「気」があるかないかの問題だと思っています。」

色と形の自己言及的洗練(抽象の、ほぼ別称)にこだわるモダニズムの活力が疲弊し、それに対応すべきポストモダニズムの破産が顕在化した今日、絵画は自らの行方も分からず立ち尽くしている。やや活気があるのは、対象を極度に映し込む類の具象表現だけだ。このとき、「気」を前面に押し出した大藪雅孝の、幾分かは神がかり的な主張に傾聴すべきものを直観するのは私だけのことだろうか。彼は自然=宇宙と直結すべき絵画の原点回帰、すなわち「気」による万物の荘厳を唱えているのだ。具象とか抽象とか―そんな皮相な分類はどうでもいい。思い出してほしいのだ。この画家は「現代美術」の試練を経てきたのだ。だからこそ、次のような、モダニズム絵画の理論的支柱クレメント・グリーンバーグの、あらゆる具象性を放棄して「絵画は物体に収斂すべし」との格率(maxim)に比すべき断定が、その一見したところ穏やかな口元から出てくるのだ。

 「また絵は平たい立体であり、存在感の強い平面の物体であるべきです。もちろん、そこに描かれた現象面で示す線や、形、色、空間などから語りかけられるものがあるわけですが、それ以前に、質の高い平面であらねばならないと思っています。」

  質の高い平面? 造形性以前の? これにはさまざまな考え方が可能だろうが、ここに「気」が介在するのは言うまでも無い。後をどうするか、これは各自の問題、いやむしろ課題であるように私には思える。はっきりしているのは大藪のように考えだすと、具象と抽象、日本画と洋画といった区別の因習性が際立ってくることだ。そして思い出そう。古来、人と自然=宇宙の、絵画とはある意味での賛美ではなかったのか? たとえば西欧中世ゴシック末期から北方ルネサンスに頻出する細密描写の動機は、草花=被造物の克明な描写による神の賛美ではなかったのか? 

荘厳の美を唱える画家の脳裡に何が去来していたのか私は知らない。ただ一つ確実に言えるのは、この巨人的芸術家がそれによって、絵画の原点回帰による再構築の可能性を高らかに掲げ、私たちの内面はすでにそれに反応しているということだ。(美術史家/多摩美術大学美術館長)

HISTORY



1937 年 父の赴任先ソウルに生まれる
1942 年 帰国、小学・中学時代は善通寺、高校時代は丸亀で暮らす
1960 年 銀座・村松画廊にて第1回個展・東京藝術大学美術学部工芸科図案計画専攻卒業
1962 年 第6回シェル美術賞展に入選、佳作賞を受賞
1977 年 中国・モンゴルを取材旅行する
1982 年 東京藝術大学美術学部デザイン科 助教授に就任
1987 年 「愛しき仲間たち 大藪雅孝画集」が刊行される
1990 年 東京藝術大学美術学部教授に就任
1993 年 「大藪雅孝作品集 愛しき世界」が刊行される
1994 年 「山水鳥話」が刊行される
2004 年 退官記念として画集「大藪雅孝」が刊行される
2004 年 東京藝術大学名誉教授
2010 年 ロシア( モスクワ) の国立美術館「- 現代日本絵画- 日本の美展」のメイン作家として、ロシアアートアカデミーの会員に推挙される
2016 年 9月逝去